六ツ角研究室(ムツラボ)

ムツカドあたりから流れる音楽のごときニュアンスを

あの感情をめぐる水曜日

朝起きてテレビをつけたら、勘三郎さんの死去を伝えるニュースが流れており
あまりに突然だったのと、あまりに動揺してしまってる自分に驚いた。
質は違うものの、まるっと一年前の談志さんの時のような揺さぶられ感。
勘九郎くんのこととか、改装後の歌舞伎座のこととか、現実に即した影響もドでかい人ですし、あまりに大きな存在なもので、いろんな人の感情まで想像せずにはいられない、個人的にも好きで尊敬していたもので、その辺りがないまぜになるから、ざわつきも寝起きには強烈すぎる情報だった。
そうやって、耳から入ってくる情報に身を委ねてしまうと、仕事をしながらも無意識で故人に関する情報をネットで検索したりするのだ、そうか、そうだったのかと、それで何か分かったような気になる。感傷的になる。それを繰り返してきたのです、誰かが亡くなるたびに。
いや、別にそれはいいのだ。それは素直な気持ちであり、素直な行動なのだから。

ちょうど一年前に、世界は(この世は?)立川談志という大きな存在を亡くしているので、気付いたのだ。
この感傷的な気分や涙というのは、長くは続かない。そしてその先にあるもの、残るものが本質なのだろうと。
つまり、実体としての談志さんを亡くしてしまったが、いまだに談志はどこにでも“ある”。
さらに脈々と息づく“芸”を、談志さんの肉体がなくとも感じることすらできる。
“生”の反対語は“死”、これはわりと分かりやすい。いや、“反対”というよりも“対(つい)”という言葉にしたほうが分かりやすい、生と死は地続きというのは、歳をとればとるほど感覚としてしっくりくる。
さて
“現象”の反対語は“本質”なのだそうだ。
これも地続きだととらえると、今自分をとりまく、勘三郎さんの死を巡る、生々しい情報に附随する感情を“現象”だと理解できる(ついさっき、思い巡らせて)。
つまり、勘三郎さんのとてつもない本質については、実体をなくして、現象の先の先にこそに見えてくるものなんだろう。見えてくるといっても、目に見えるのではなく、それぞれにあらゆる息づかいとして“ある”状態になるのだと思われます。
ここまでが、水曜日の1日を終えてつらつら考えていたことの少し。
来年の二月博多座大歌舞伎の勘九郎の襲名にもその本質を見ることができるだろうし、銀座に再び姿を現す歌舞伎座のスピリッツにも感じることができるんでしょうよ。
もちろん、何だかやっぱり悲しいんだけどさ。あの革命的な才能を生で見られないという当面の事実において・・・。